ギャラリー

a hope of Nagasaki 優しい人たち リバイバル上映

リバイバル上映 3/11〜 シネリーブル池袋

ウクライナからのニュースに心が痛み、何もできないもどかしさに苦しみが募る日々です。

そんな中、テアトルシネマグループさんにご協力頂き、長崎の被爆者取材を重ねた前作 「a hope of Nagasaki 優しい人たち」 の期間限定リバイバル上映が決定しました。

世界で原爆を投下されたのは日本だけ。

被爆を体験していない世代の私たちも、幼い頃から本や映像でその悲惨さを見聞きした事があるはずです。

熱線の、爆風の、放射能の苛烈な被害に驚き、恐れ動揺する。

それらを深く知っているのは、恐らく私たちが日本に暮らし、毎年夏には何らかの形で原爆被害を思い出して祈りを捧げてきたからではないでしょうか。

唯一の被爆国である日本には「使う恐ろしさ」を訴えていく義務があるのではないかと感じています。

一瞬にして失われるのは一般市民の命と暮らし。

現状に抗議の意を表すとともにこうして再上映の場を設けてくださったテアトルさんの決断に感謝です。

ヨーロッパ限定で英語字幕版を無料でご覧いただけるよYouTube配信も検討しています。

3月11日〜シネ・リーブル池袋上映時間は改めて告知します。

取材記録

嬉しいことに、母校での取材。

97歳のディーダース神父様は日本管区長も務められたすごい方なんですが、とっても気さくな方です。

終戦時のアメリカでの暮らし、日系人との出会いなどお話を伺いました。

日本に暮らして70年、日本という国はどう映っているのかな?と想像しながら、穏やかな時間を共有することができました。

ありがとうございました。

for you 人のために のFBページを開設しました。

https://www.facebook.com/foryou.hiroshima/

取材記録

森佳代子さんの取材。

3歳の時、爆心地から4キロの自宅で被爆した佳代子さん。

小さい時、お父さんの体に残るケロイドが怖かったそう。お父さんももまたケロイドを隠すように気をつけていたそうです。

原爆投下から10年は「空白の10年」とよばれ、医療や生活支援が整わず被爆者は苦しい生活を強いられていました。

人のために奔走し続けたお父さんの背中は、今もなお佳代子さんを支えるづけています。

取材記録

広島県 長束修練院は原爆投下直後からたくさんの方が避難してこられた場所です。

神父さんたちが初期養成を受け勉強する場なんだそうです。

爆心地から 4.5キロの場所にあるこの修練院は当時のまま建物が残っています。

ここにまさに、怪我人を運び込み治療をされていたとのこと。

静かな空間の中に広がる歴史の重みに圧倒された1日でした。

取材記録

広島市内の被爆者の方達の取材を進めていく中で、偶然 教えていただいたのが

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 で開催されていた企画展

わが命つきるとも でした。

広島の幟町教会(爆心地から 1.2キロ)、 長束修練院(爆心地から4.5キロ)には

外国人神父さんたちがいらして

ご自身たちも重傷を負いながらも長束修練院で怪我人を受け入れ治療にあたったそうです。

その企画展がちょうど開催されていて、祈念館へ。

祈念館に入ったのはこの時が初めてだったのですが

静寂の中で気持ちがぴん、と引っ張られるような感覚になります。

まだ来館されたことがない方、ぜひ行って見られてください。

戦時、外国人というだけで暮らしにくかったのでは?と想像します。

被爆後の献身的な活動は、周囲から偏見の目を減らすことにもつながりました。

素敵な企画展をご紹介頂きありがとうございました。

取材記録

広島での取材。被爆者健康手帳を取得する際、ご自身では難しいケースが多数あります。

事情を知らない人からすると「早くに申請しておけばよかったじゃない」と思われるかもしれません。

例えば広島を離れて暮らしていたら、周りに手帳を持っている人はいない。被爆当事者もいない。

手帳を持っていると知れたら、辺な目でみられるのではないか、子どもが差別されるのではないか。

もっと苦しんで無くなっていった友達達に申し訳ない。できればあの光景をもう思い出したくないーーーー。

さまざまな思いが一人一人にあるはずです。

手帳を申請しよう。

そう決めた時に、手続き上の難しさがあります。

被爆当事者 一人一人に寄り添い、耳を傾け、支える方達へのインタビューを実施しました。

取材記録

実は被爆者健康手帳を見たことがないんです、と言うと森さんご夫妻はとても驚かれて、実物を見せてくださいました。

当事者で無く、県外に住んでいると見かける機会は殆どありません。

当事者の方からすると当たり前のことが、私たちには全く知らない事だったりします。知らない=想像力を持ちにくくなる要因の一つですね。

57年に原爆医療法が施行された後、市議をつとめていた佳代子さんの父 明一さんは法改正の陳情のため上京を重ね、自らのケロイドを見せて訴える事もあったそう。60年の改正では一般疾病も対象になり、多くの方の暮らしを支えた事だろうと思います。

いつの時代もどの分野でもこうした現場の声を届けるところから。

取材記録

ご自身の被爆体験についてお話しくださった桑本さん。

少し緊張されているかな?と思いつつお話をはじめましたが、爆笑の連続で、素敵な笑顔。

インタビューでは、暮らしや生き方についてお聞きする時間も長くとらせてもらっています。

「暮らし」について伺っていると、当時の情景が目に浮かぶようです。

ふかしたジャガイモ、穂を揺らして飛び出してきたイナゴを捕まえて食材にしたこと、豪快なお父さんの自転車スキル、などなど。

確かにここに人々の暮らしがあったのだと当時を知らない私たちも感じることができています。

疎開先の長束(爆心地から4キロ)で被爆された桑本さん姉妹

。市内の火がおさまった3日後、お母さんを探すため市内を歩き回り、姉は遺体にかけられた筵を1つ1つめくってお母さんじゃないかと確認してまわりました。その様子は妹の桑本さんに強烈に残っているそうです。

戦中も戦後も生きることは多様で 山があり谷があり 乗り越えてきた方のお話に惹きつけられます。