取材記録

被爆米兵とは

1945年7月、呉軍港空襲で追撃されたロンサムレディー号、タロア号などの乗員が追撃され捕虜に。

うち12名が移送された中国憲兵隊司令部で被爆。その殆どが当日に亡くなりました。

アメリカ政府の見解は戦後しばらくの間、「被爆したアメリカ人はいなかった」となっていましたが、森重昭氏をはじめとする多くの調査・尽力により1983年に初めて公的に「被爆死した10人」が認められました。

2016年  バラク・オバマ大統領の広島訪問時の演説において10数人の被爆者がいたことに言及されています。

◆ロンサムレディー号

ダーデン・ルーパー少尉、ジェームズ・ライアン少尉、ヒュー・アトキンソン軍曹、ジョン・ロング伍長、パッフォード・エリソン軍曹、ラルフ・ニール二等軍曹

◆タロア号

ジョセフ・ダビンスキー少尉、ジュリアス・モルナー二等軍曹、チャールズ・バウムガルトナー二等軍曹

◆空母タイコンデロガ艦載機

レイモンド・ポーター中尉、ノーマン・ブリセット三等軍曹

◆空母ランドルフ艦載機

ジョン・ハンシェル少尉

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先日取材させてもらった、笑顔が素敵な福田さん。

実は家族にもほとんど被爆の話をしたことがないそう。

それだけ当時のトラウマは大きかったし、日々の暮らしが大変だった。そして思い出すのが怖く、話して伝わるか不安も感じていたそうです。

長い時間を経てやっとここ数年は少しずつ話せるようになり、気持ちの整理もできるようになってきた、と。

ご自宅にお邪魔しての取材では被爆した年に神父様と近所の子供達で歩いた時の写真を見せてくれました。周りは瓦礫だらけ、たまたま通った進駐軍の方が撮ってくれたのだとか。

話すの苦手だから、とおっしゃっていた福田さんですが、感情表現豊かなお話でした。

貴重なお話をありがとうございました。

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嬉しいことに、母校での取材。

97歳のディーダース神父様は日本管区長も務められたすごい方なんですが、とっても気さくな方です。

終戦時のアメリカでの暮らし、日系人との出会いなどお話を伺いました。

日本に暮らして70年、日本という国はどう映っているのかな?と想像しながら、穏やかな時間を共有することができました。

ありがとうございました。

for you 人のために のFBページを開設しました。

https://www.facebook.com/foryou.hiroshima/

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森佳代子さんの取材。

3歳の時、爆心地から4キロの自宅で被爆した佳代子さん。

小さい時、お父さんの体に残るケロイドが怖かったそう。お父さんももまたケロイドを隠すように気をつけていたそうです。

原爆投下から10年は「空白の10年」とよばれ、医療や生活支援が整わず被爆者は苦しい生活を強いられていました。

人のために奔走し続けたお父さんの背中は、今もなお佳代子さんを支えるづけています。

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広島県 長束修練院は原爆投下直後からたくさんの方が避難してこられた場所です。

神父さんたちが初期養成を受け勉強する場なんだそうです。

爆心地から 4.5キロの場所にあるこの修練院は当時のまま建物が残っています。

ここにまさに、怪我人を運び込み治療をされていたとのこと。

静かな空間の中に広がる歴史の重みに圧倒された1日でした。

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広島市内の被爆者の方達の取材を進めていく中で、偶然 教えていただいたのが

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 で開催されていた企画展

わが命つきるとも でした。

広島の幟町教会(爆心地から 1.2キロ)、 長束修練院(爆心地から4.5キロ)には

外国人神父さんたちがいらして

ご自身たちも重傷を負いながらも長束修練院で怪我人を受け入れ治療にあたったそうです。

その企画展がちょうど開催されていて、祈念館へ。

祈念館に入ったのはこの時が初めてだったのですが

静寂の中で気持ちがぴん、と引っ張られるような感覚になります。

まだ来館されたことがない方、ぜひ行って見られてください。

戦時、外国人というだけで暮らしにくかったのでは?と想像します。

被爆後の献身的な活動は、周囲から偏見の目を減らすことにもつながりました。

素敵な企画展をご紹介頂きありがとうございました。

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広島での取材。被爆者健康手帳を取得する際、ご自身では難しいケースが多数あります。

事情を知らない人からすると「早くに申請しておけばよかったじゃない」と思われるかもしれません。

例えば広島を離れて暮らしていたら、周りに手帳を持っている人はいない。被爆当事者もいない。

手帳を持っていると知れたら、辺な目でみられるのではないか、子どもが差別されるのではないか。

もっと苦しんで無くなっていった友達達に申し訳ない。できればあの光景をもう思い出したくないーーーー。

さまざまな思いが一人一人にあるはずです。

手帳を申請しよう。

そう決めた時に、手続き上の難しさがあります。

被爆当事者 一人一人に寄り添い、耳を傾け、支える方達へのインタビューを実施しました。

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実は被爆者健康手帳を見たことがないんです、と言うと森さんご夫妻はとても驚かれて、実物を見せてくださいました。

当事者で無く、県外に住んでいると見かける機会は殆どありません。

当事者の方からすると当たり前のことが、私たちには全く知らない事だったりします。知らない=想像力を持ちにくくなる要因の一つですね。

57年に原爆医療法が施行された後、市議をつとめていた佳代子さんの父 明一さんは法改正の陳情のため上京を重ね、自らのケロイドを見せて訴える事もあったそう。60年の改正では一般疾病も対象になり、多くの方の暮らしを支えた事だろうと思います。

いつの時代もどの分野でもこうした現場の声を届けるところから。

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ご自身の被爆体験についてお話しくださった桑本さん。

少し緊張されているかな?と思いつつお話をはじめましたが、爆笑の連続で、素敵な笑顔。

インタビューでは、暮らしや生き方についてお聞きする時間も長くとらせてもらっています。

「暮らし」について伺っていると、当時の情景が目に浮かぶようです。

ふかしたジャガイモ、穂を揺らして飛び出してきたイナゴを捕まえて食材にしたこと、豪快なお父さんの自転車スキル、などなど。

確かにここに人々の暮らしがあったのだと当時を知らない私たちも感じることができています。

疎開先の長束(爆心地から4キロ)で被爆された桑本さん姉妹

。市内の火がおさまった3日後、お母さんを探すため市内を歩き回り、姉は遺体にかけられた筵を1つ1つめくってお母さんじゃないかと確認してまわりました。その様子は妹の桑本さんに強烈に残っているそうです。

戦中も戦後も生きることは多様で 山があり谷があり 乗り越えてきた方のお話に惹きつけられます。